朔太郎の文化民族学報告集・謡曲「蝉丸」から

   「これやこのいくもかえるもわかれてはしるもしらぬもあふさかのせき」の百人一首の歌で知られる蝉丸と、その姉宮逆髪の登場する謡曲「蝉丸」は世阿弥の作と云われ、これほど陰惨な曲はないとされる。
 場面は凡そ三場面に分かれている。まず、延喜帝の第四皇子の蝉丸が、皇子でありながら京都は山科に捨てられる場面である。普通の場合、帝の皇子であるなら、天台か真言の寺院へ入り門跡となるのであるのでろうが、その境遇とならないのは、蝉丸が盲目であるからと説明される。次の場面は、第三皇女で姉である逆髪が生まれついての「狂女」で、毛が逆立っているという容貌であることから、京の町を、子供に笑われながら徘徊する場面である。最後の場面は、この二人が逢坂山で出会い、慰め合う場面である。
 能の起源を訪ねると、寺院の境内で行われていた演芸であるため、その内容は、神仏縁起に因み、霊験による功徳が説かれるのが常である。が、後世、芸能として独自に発展するようになると、この「蝉丸」のように最後に至っても救われない話も生まれてくることになる。
「げにや、何事も報いありける浮世かな。前世の戒行いみじくて今皇子とはなり給えども・・・」、「盲目の身と生まれるる事、前世の戒行拙き故なり」と、盲目であるにも係わらず山に置き去りにされる蝉丸も「われ皇子と生まれどもいつの因果の故ならん」という逆髪も、根底にある思想は、前世の因業を因果とする輪廻転生である。従って、この二人は、この世では救われれず、来世極楽往生を願う天台の浄土思想である阿弥陀如来の第19願が望みである。しかし作中には、南無阿弥陀仏の念仏もなく、蝉丸は悲しく琵琶を弾くだけである。
「峯に木伝ふ猿の声、袖を滋す村雨の、音にたぐへて琵琶の音を、弾きならし、弾きならし、わが音もなく涙の、雨だにも音せぬ藁屋の軒のひまびまに、時々月は漏りながら、目に見ることの叶わねば、月にも疎く雨をだに、聞かぬ藁屋の起臥を、思ひやられて痛はしや」
 この世に於いては、救いのない悲しい話である。
 願似此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国

別解

蝉丸という第四皇子がいたかが、歴史上確かではない。別説では宇多天皇の第三皇子、敦実親王の雑色であるともいう。まして逆髪がである。京都と大津の境、逢坂山に蝉丸神社がある。以前は今より境内が広く、また一つではなく三社あったといわれている。そこで蝉丸をまつる思想は、祖霊信仰である。後世、琵琶を弾く蝉丸に因んで、音曲の神として祀られることになったのであろうが、一体誰が、蝉丸を神として祀るようになったのか、考えてみよう。
 平家物語の語部である、琵琶法師は一般の僧階を持たない漂泊の遊行僧で河原者である。つまりは、乞食同然の職種であって、街角で、琵琶を弾いては日銭を稼ぐ職業である。これらの人が、「流泉」「啄木」といった名曲の作曲家、名手の蝉丸を祀ったのであろうと考えるのが正論であろう。その際蝉丸が皇子であったとするのが、さらに結構な縁起である。(実際は、琵琶法師の祖先は、仁明天皇の第4皇子、人康親王と伝えている)。いわゆる貴種流離_である。この例は琵琶法師に限ったものではない。滋賀県は湖東地方鈴鹿の山中に木地氏発祥の部落がある。小椋郷の蛭谷、君が畑である。この木地氏の祖先は、文徳天皇の第一皇子、惟喬親王であると伝えている。
話を戻して、蝉丸神社の由来を求めると、本来は坂の神を祀っていて、その後関明神に変わり、さらに蝉丸を併せ祀るようになったのである。この蝉丸の伝説は、元々、奈良豆比古神社(奈良県添上群)の春日王(施貴王子・天智天皇の第6皇子)の話とされる。この伝説によると、春日王は、白らい、逆髪の病に罹り、この奈良に隠棲した。その皇子達が生活の為、猿楽芸を演じたり、草花を売ったり、弓矢を作ったのである、というものである。これらの職業は、夙の生業であり、春日王はこの為、シュクの神、セキの神、サカの神となる。サカの神は出雲系の神で、龍神信仰と関係がある。記紀に記される、スサノオと八股のオロチ(龍)の戦いは朝鮮系渡来人と出雲原住民の戦いと考えられる。この出雲系の一族が山科に移り住んだと考えられる。山科から長等にかけては、龍神信仰のメッカでもある。山科明神は諸羽明神であり、その所在地は柳(龍)山というし、三(巳)井寺や長等(ナーガ・サンスクリット語で龍蛇の意味)は神紋が、巳紋である。信仰の一致する山科の土地は、言い換えれば、同じ民族の住み土地である。この土地に於いて、猿楽の山科座が形成された。夙猿楽の流れであろう。
 京都に於いて。河原者と呼ばれる職業がある。この中には地神盲僧がいた。このものは、琵琶の伴奏で地神経なるお経を読み、土公神を祭り、地鎮祭を行う盲目の僧である。この者たちも夙の流れを汲む。
これらのことより、琵琶、蝉丸、と能の前身である猿楽の関係が浮き上がってくる。
能楽師というのも、琵琶法師と同じ下賤の職業とされていた時代であるから、同じ音曲の祖先の出自が、皇室であることを暗に示すとともに、祖先祖霊の出自、信仰、民族を確認するのが、この能の本意ではあるまいか?祖先に対する鎮魂の能である。
世阿弥のいた結崎座(後の観世座)が中国系の渡来人の藤原氏の祖先を祭る春日大社を本拠にしており、以上の推論は、出雲系の世阿弥の血脈をほのめかそうとした、ささやかな抵抗であったと考える。(春日大社の祭神は、タケミカヅチノカミ、フツノカミ等四柱で、前述の春日王とは関係がない)。また、本作の作成年代が不明であるが、後年世阿弥が不遇であったことをも考えると、蝉丸がこの世で救われないのも、偶然の一致と考えるのは早計であろうか?
因みに、姉の逆髪は美容師からの信仰を受けている。先に述べた奈良豆比古神社にも、後世、逆髪が祀られるようになったのは、単に言葉の類似から来るものでないと信じる。

補追

 昭和十五年十二月十日、能楽五流の家元による申し合わせで「蝉丸」は当分公開演能差し控えのこととされている。実はこの蝉丸のほかにも八作が自粛の対象となっている。これだけで差し控えの理由が分かるなら、素晴らしいものですが、この理由は「蝉丸」の中の台詞にあります。
 「延喜帝の第四皇子の蝉丸が、…皇子でありながら…捨てられ…蝉丸が盲目であった…次に第三皇女であった逆髮が生まれつき、心が乱れ…」
 当時、自粛に至った理由を述べると、「延喜の帝が盲目の皇子を逢坂山に捨てられるばかりか、逆髮の女王を狂人に作り為すが如きは、我が皇室の尊厳を傷つけるものである。」というものである。
能において、皇室がどのように取り扱われているかは、大嘗祭のある本年には興味ある議論であるが、こと「蝉丸」に関する議論に戻ることにする。
「王権を担う者は、その出発点において大罪を背負い込むことにより、大衆の罪を引き受け、その意識を権威に転化し、紙に近づくことが可能となる。そして大衆が、祭り、芸能等の手段で権威を犯す、落とすことで深層の意識では、逆に権威を認め、権威を保つ意識として働くようになる。」つまり、神社の祭りなどで見られる、数々の行為は神に対して無礼なものなのであるが、このような行為は神の権威を傷つけているが、その実、畏敬の念が深まり、神の尊厳が高まるという説である。 蝉丸の例で言うと、聖なる皇室のイメージを汚す蝉丸、逆髮を登場させることで、犯してはならないものと、犯してしまうことの微妙な立場を保つことで、心のうちで皇室を尊厳を認め、敬うのである、という意味にとれる。高踏な心理学的解釈は、素直に認めたくない気もするのである。
 別の意見を引用する。「延喜の帝(醍醐天皇)は多くの皇子がおられたが、次々と亡くなられた。皇太子ですら二名も亡くなられている。平安時代の仏教盛んなこの時代において、このような不幸は輪廻の思想で苛まれることになる。それは、帝といえ避けられないものであるが、当時は今ほど皇室行事と言え神道に拘っていないと考えられる。むしろ仏教思想に救いを求めて、加護を願うのである。かかる不幸の因果は高貴な帝とはいえ逃れられないのである。滅罪を願う宗教意識が、皇室を至上とする体制意識より高次のものである。」と論じ、「逆髮はこの無限の鎖の中に人間目前の境涯を順逆二相にとらえ、面白しと観じる。彼女の物狂いには因果からの解放があり、禅の悟道がある。」と蝉丸の能の中に足利時代の禅の影響を捉らえるのである。かくの宗教的主題の提示がこの蝉丸の正鵠であると説明する。この意見が、前述した心理学的な解釈と本分で朔太郎が推論した民族宗教意識に基づく解釈とを比べると、一般的で正しいと考えるが、荒唐無稽な解釈は楽しいものである
能に関しての一般的イメージ論では、歴史教科書裁判で有名な家永三郎氏は、「猿楽全体に流れるムードは現地の無情、悲惨等の厭相を鋭くえぐる悲劇的な傾向が基調となっている。厭離穢土の媒介によってのみ、欣求浄土の心を催させる浄土教的思想のほうに深く結び付いていると言えるのではなかろうか、」と語っている。

蛇足ながら朔太郎の大嘗祭についての意見を最後に言わせてもらいます。
 古代の天皇の寿命は神話的な長寿が記録されていますが、このことで実在しないと結論づける学者もいますが、これについては同じ名前を継げば説明のつくことです。つまり後継者が霊的に繋がれば良いのです。また古代の皇室は血統が何回か途絶えたりして、幾つかの民族から選ばれているのがほぼ定説です。この理由から、万世一系を伝えるためには、霊的な再生儀式が必要となります。これが大嘗祭の由来であると考えます。この意味から、大嘗祭は完全な神道儀式です。この大嘗祭が続く限り皇室は霊的にアマテラスの子孫であれるのです。この完全な神話伝承の時代からの祭祈であるなら、立派な無形文化財であります。儀式としての重要な部分は皇室外には漏らされないのは致し方ないとして、保存すべきイベントであると考えるのです。


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